2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位
授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」
授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」
第9回講義(2007年1月9日)
<これまでのまとめ>
■まず、カントの自由論が抱える問題として、「格率のアポリア」を指摘しました。それを認めると意志決定がそもそも不可能になってしまいます。
■そこで次に、カントの自由論つまり「選択の自由」を批判する、ヘーゲルの自由論を紹介しました。ヘーゲルの自由論は、<人は共同体の一員であり、その共同体の規範は人の本質であり、それゆえに、共同体の規範に従うことは、自己の本質に従うことであって、そのとき人は自由である>というように要約することも可能である。しかし、これに対しては、<我々は個人主義の時代に生きており、個人よりも優先するような共同体を承認できない、確かに我々が何らかの共同体の中に生れ落おちて成長し人格を形成したのだとしても、相対主義のこの時代に共同体の規範というようなものを見つけることが出来るのだろうか>というような批判が可能です。
ヘーゲルの自由論の意義は、共同体主義の積極的な主張によりも、むしろ個人主義的な自由論への批判の方にあるように思われます。彼は、『法哲学』「道徳性」の章で、カントの自由論や道徳論が、決断主義に行き着くことを批判しています。我々は自由に選択したり、決断したりするのではないということを指摘したことにあります。
■さて、我々が「意志決定のアポリア」にもかかわらず、実際に意志決定を行っているのだとすると、「意志決定のアポリア」の証明にはどこかに間違いがあるはずです。そこで、前回は、それを考えました。
§7 カントの自由かヘーゲルの自由か(続き)
テーゼ2への批判「我々が、意志決定をするときには、その背後に一般的な規則があるとは限らない。」
証明:意志決定は、二通りに分けられるので、それを分けて証明しよう。
(1)意志決定が、不決定の決定である場合。
確かに、理性的に決定できなくても、決定しないよりは、決定した方がよいと考えて決定する場合があるが、しかし、そうではなくて、不決定の決定を行う場合があるのではないか。
我々は、他者と出会うことによって、決断を迫られ、決断は不可避となる。したがって、理性的に決定できなくても、不決定の決定をせざるを得ず、決定してしまったことになる。このときには、より上位の規則はない?
(2)意志決定が、「・・・すべきだ」という判断に基づいている場合。
a「私は、今、ここで、・・・すべきだ」という判断の背後には、b「私は、・・・の条件の下では、常に・・・すべきだ」という判断がある。これはおそらく正しいだろう。しかし、この場合に、aがbから導出されるということが、正しいとは限らないように思われる。むしろ逆にaからbが同種される場合もあるかもしれない。たとえば、パトナムの次の発言は、これと似たような事柄を考えているのだと思われる。
「しかし、困窮している人間と向き合うとき、その人間を助けるという知識よりも還元不可能であるような、何があるだろうか、何がありうるだろうか。(たとえ、反省の結果、他の倫理的義務が最初のその義務にまさると判断したとしても、それによって絶対的に基本的で還元不可能なものを私が認識しているということが変わるわけではない。)」(パトナム『事実/価値二分法の崩壊』藤田晋吾/中村正利訳、法政大学出版局、2006年、p.166)
学生から寄せられた次の批判も同様の趣旨のものだろうと思います。
・平野一比古さんの意見:
「意志決定の無限背信のアポリアは、論理的な構造を完成品としてとらえようとするときには、確かにアプリオリであるにしろ、現実的な意志決定は直接にその意志決定の論理構造に基づいていないのではないか。現実の意志決定は、無限背進の論理構造をもつ意志決定とは違う。あるいは、こういうアポリアのモデルでは、把握されないということで、この問題を済ますことは出来ないでしょうか。(つまり、法則はないか、あっても、一つの法則か、あるいは2,3段階遡る構造にしかないということ。)」
・佐々木絢さんの意見:
「カントの自由は、格率という個人にとって普遍的なものを基礎としているけれど、選択や意志決定は、もっと臨機応変で個別的なものだと思います。」
これらの批判は、<ある規則の採用であれ、個別的な決定であれ、より上位の規則に従って選択されたのではないないような選択がある>ということを事実として指摘しているのだろうと思います。たしかに、それが<事実>かもしれません。しかし、その事実は何を意味しているのでしょうか。それは、次のBを意味しているように思われます。
@もし、我々が、全くどのような拘束からも自由であるとすると、そのときには、何かを選択することが不可能になってしまうのでしょう。なぜなら、選択するには普通は選択の基準が必要であり、ある事柄をその選択の基準として採用することを拘束されているとすれば、我々は自由ではないからです。もしそれを選択の基準として採用するように我々が拘束されていないとすれば、それを選択の基準として採用することは、これまた自由に選択されたことになります。そしてその自由な選択が可能であるためには、またしても別の選択の基準が必要であるとすれば、議論は無限に繰り返すことになります。つまり、もし我々が全くどのような拘束からも自由であるとすると、我々には選択が不可能になってしまうのです。
Aそこで、選択の基準がなくても、我々は選択が出来る、つまり不決定の自由があるとしよう。その場合の選択は、基準がないのだから、いわば心の中でサイコロをふるようなでたらめな選択である。もし、我々がそのようなでたらめな選択が出来るとして、それが自由と言うことなのであろう。もし、それが自由なのだとしたら、それはそれほど価値のあることだろうか。たとえば、もしそのようなでたらめな選択によって、よい行いをしたり、悪い行いをしたりするのであれば、そのときの行為を、その人の責任だといえるのだろうか。
Bもし@でもAでもないとすると我々は次のように考えることができる。我々の意志は全くどのような拘束からも自由なのではない。もしそうならば、@のように選択できなくなるか、あるいはAのように選択できたとしても、つまらないことになるからである。我々の意志は、ある事柄に拘束されており、それが我々の意志決定の基準になっている。この基準を採用するための選択は存在しない。このような基準があれば、我々は意志決定を説明できる。もしこのような基準があるとすれば、それは我々にとって本質的なものである。なぜなら、我々はそれに対して距離をとることができないからである。この立場は、ヘーゲルの言う自由論に近いのではないだろうか。
(3)両方の場合に共通する指摘
我々が、意識して自分の行為を決定するとき、そこには複数の選択肢の中からの選択の意識が伴っている。しかし、そのときそこでは、無数の多様な他の選択肢設定方法が可能である。例えば、他者の存在が和我々に決断を迫るという場合においてすら、その状況は別様にも解釈できるのではないか。そうすると、別様の選択肢の可能性が見えてくるのではないか。
たとえば、道を歩いていると、向こうから合ったことのある人がやってくる。しかし、それほど親しいわけではない。そこで、私は挨拶するかどうか躊躇する。このとき、相手との距離はどんどん近づき、私は決断を迫られる。しかし、この状況は、私が相手に挨拶するかどうかの選択を迫まられている状況であるとは限らない。それは、相手ともっと知り合いになるチャンスかもしれない。あるいは、そんなことよりも先ほどまで考えていたもっと重要なことを考え続けるべきかもしれない。
§8 フィヒテの自由および道徳の超越論的論証
カントの道徳論は、道徳の存在を「理性の事実」として前提し、もし道徳が存在するとすれば、それはどのようなものでなければならないか、という問いに答えたものだといえる。
これに対して、フィヒテの道徳論は、自己意識を前提し、<もし自己意識が存在するとすれば、自己意識は、・・・という道徳原理を採用せざるをえない>というしかたで、道徳原理の超越論的な証明を行っている。これは、同時に、自由の超越論的証明にもなっている。
<『道徳論の体系』1798の「第一部、道徳の原理の演繹」の抜粋>
(数字は、Fichtes
Werke, hrsg. von I.H. Fichte, Bd.IV. の頁数
訳文は、藤沢訳を参照、一部変更。)
---------------------------------------------------------------ここから
第一部 道徳性の原理の演繹
この演繹への序論13
外的目的から全く独立した若干のことがらを行うという強制Zunoetigungが、人間の心の中に現れ、端的にただそれだけで、そのことが起こる。あるいは、外的目的から全く独立した若干のことがらを行わない強制Zunoetigungが、人間の心の中に現れ、端的にただそれだけで、そのことが中断される。人間が人間であるかぎりは、このような強制が人間に必然的に現れる限りで、この人間のこの性質は、道徳的あるいは人倫的本性とよばれる。13
この根拠の叙述Darstellungは、それによって、何かが、最高の絶対的原理つまり、自我性の原理から導出され、それから必然的に帰結することとして証明されるのであるから、導出Ableitungないし演繹Deduktionである。14
§1 課題「自己自身をもっぱら自己自身として、すなわち我々自身ではないものすべてから切り離されたものとして、思考すること。」18
解決(1)定理「私は私自身を、私自身として見いだす。もっぱら欲するものとして見いだす」
証明
証明は次のように遂行することができる。
「自我の特徴は、行為するものとそれに対して行為がなされるものとが一にして同じである、ということである。」22
「さて、思考されるもの、つまり客観的なものは、もっぱらそれだけで思考からまったく独立に、自我であるべきであり、また自我であると承認されるべきである。というのも、それは自我として見いだされるはずだからである。」22
「ゆえに、思考されるものなかには、行為するものと行為されるものとの同一性が 生じなければならない。それは、自己自身による自己自身の実在的自己規定である。これは、意欲das Wollen である。
したがって、<私が私を意欲するものとして見いだす限りで、私は私を見いだす>そして<私は私を見いだすかぎりにおいて、私は私を必然的に意欲するものとして見いだす>。」22
(2)「けれども、意欲そのものは、自我とは異なったものを前提にしてのみ考えることが可能である。」23
(3)「したがって私は、私の本質を見いだすためには、意欲のなかに含まれるあの疎遠なものを捨象して考えねばならない。この捨象の後に残るものが私の純粋な存在である。」24
結論「自我の本質的な特徴、すなわち自我をそれの外なるすべてのものから区別するゆえんのものは、自発性Selbsttaetigkeitのための自発性への傾向Tendenzの内に存する。そしてこの傾向は、自我がそれの外なる何ものかへの関係などいっさいなしに、それ自体としてそれだけで思考される場合に、思考されるものなのである。」
§2
課題「自分の根源的存在の意識をはっきり意識すること」
「要請(Postulat)にしたがって、自我がかの絶対的活動性への傾向を自己自身として直観するときに、自我は自己を、自由だとして、つまり単なる概念による因果性の能力として、措定する。」37
§3
課題「自我がいかなる仕方で絶対的自己活動への自分の傾向をそれとして意識するかをみること」
(1)「措定された傾向は、必然的に、衝動として、全自我に向かって自ずから発現する。」40
「自我性は、主観的なものと客観的なものとの絶対的な同一性(存在と意識と、意識を存在と絶対的に合一すること)から成り立つ、と言われる。主観的なものでもなく、客観的なものでもなく、同一性が自我の本質なのである。」42
「この同一性という概念は、思考の課題として記述することができるだけであって、決して思考することのできないものである。この概念は、我々の研究における空所を暗示している。」42
「この全自我は、主観でもなく客観でもなく、主観ー客観(これは思考の空所以外のなにものをも意味しない)であるかぎりで、それ自身のうちに絶対的自発性への傾向を有している。」42
(2)「通例であれば、衝動のこの発現から感情が帰結する、と期待されることもできようが、今の場合は決してそうはいかない。」
「感情というのは、自我内の客観的なものが自我内の主観的なものに、つまり自我の存在が自我の意識に、単にかつ直接的に関係することである。感情能力が両者の本来的な合一点である。」43
(3)「衝動の発現から必然的にある思想が帰結する」45
「導出された思想の内容を手短に記述するとつぎのようになるであろう。すなわち、我々は端的に概念によって意識的に、しかも絶対的自発性の概念にしたがって我々を規定すべきである、というように思考することを強いられている。」49
――――――
「厳密に言うと、我々の演繹は終了している。我々も承知しているように、演繹の元来の最終目的は、我々はある一定の仕方で活動すべきである、という思想を、理性一般の体系から必然的なものとして導き出すことにあり、理性的存在者なるものがそもそも想定されるのであれば、理性的存在者はこうした思想を思考するということも同時に想定される、ということを証明することにあった。」49
この演繹にしたがった道徳性の原理の記述
「道徳性の原理は、「知性はその自由を、自立性の概念にしたがって端的に例外なしに規定すべきである」という知性の必然的思想である。」59
Das Prinzip der
Sittlichkeit ist der notwendige Gedanke der Intelli-
genz, dass sie ihre Freiheit nach dem Begriffe der Selbststaendigkeit,
schlechthin ohne Ausname, bestimmen solle.
---------------------------------------------------------以上
ここでは、「自己意識が存在する」(あるいは「自我が自己自身を措定する」)という事実判断から「・・・すべし」という価値判断(道徳原理)を導出するという論証が行われている。これにたいしては「自然主義的誤謬」だという批判ががなされるかもしれない。つまり、かりに知性が自由であり、自由でなければ知性ではありえないとしても、そのような事実から、自由である<べき>だ、という規範を導出することはできない、という批判である。
しかし、フィヒテの論証は、もう少し巧みである。彼が指摘するのは、自己意識が成立しているときには、自由であるべきだと考えるということがつねに必然的に伴っているということである。つまり、我々は、このような規範を意識することなしには自己意識でありえず、我々が自己意識であるかぎりにおいて、我々は常に既にこのような規範を想定してしまっている、という議論である。
ここで、道徳の原理は、自己意識が成立するための超越論的な条件として「演繹」されている。この「演繹」は、今日の表現で言えば、「超越論的論証」になっている。
注:フィヒテの年譜
1762年 5月19日 ザクセン侯国ラメナウで生まれる。
1774年 プフォルタ校(ギムナジウム)に入学
1780年 イエナ大学神学部に入学
1781年 ライプチヒ大学に転学
1788年 スイス、チューリッヒのオット家の家庭教師
1790年 ライプチヒでカント哲学を個人教授
1791年 カント訪問
1792年 『あらゆる啓示の批判の試み』出版
1793年 『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』と
『これまで抑圧してきたヨーロッパの諸君主からの思想の自由の返 還要求』を匿名出版
ヨアンナ=ラーン(詩人クロプシュトックの義弟の娘)と結婚
1794年 イエナ大学に助教授として赴任。
『学者の使命に関する講義』と『全知識学の基礎』を出版
1796年 『自然法の基礎』出版
1797年 雑誌論文「知識学への第一序論」「知識学への第二序論」
1798年 『道徳論の体系』
論文「神的世界支配に対する我々の信仰の根拠について」
1799年 イエナ大学を辞職。7月ベルリンに赴く。
1800年 『人間の使命』『封鎖商業国家』出版
1801年 『知識学の叙述』(生前未公刊)
1802年 シェリングからの手紙で断絶
1804年 私的講義『現代の諸特徴』(1806出版)
1805年 エアランゲン大学教授に就任。
公開講義『学者の本質について』(1806出版)
1806年 『浄福な生への指教』出版
10.18ケーニヒスベルクへ非難
1807年 ケーニヒスベルク大学教授となるも講義せず。
8月ベルリンに帰る。ベルリン大学解説に関して建白書提出。
12月より翌年3月まで、『ドイツ国民につぐ』を講演(1808年出 版)
1810年 『知識学、その一般的な輪郭の叙述』出版
ベルリン大学教授に就任。哲学部長に任命。
1811年 学長に選出される。
1814年 チフスの兵士の看護で感染した夫人の看護で感染して1月27日死 亡
注: フィヒテの著作リスト
『あらゆる啓示の批判の試み』1792
『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』1793
『思想の自由の返還要求』1793
『知識学の概念について』初版1794,第二版1798
『全知識学の基礎』初版1794、第二版1802
「学者の使命に関する講義」1794
『知識学に固有なものの要綱』初版1795、第二版1802
「知識学の第一序論」1797『哲学雑誌』
「知識学の第二序論」1797『哲学雑誌』
「知識学の新しい叙述の試み」1797『哲学雑誌』
『自然法の基礎』前編1796.後編97
『道徳論の体系』1798
「神的世界支配についての我々の信仰の根拠について」1798
「あたらしい方法による知識学」1798『哲学雑誌』
<無神論論争>
『封鎖商業国家論』1800
『人間の使命』1800
「知識学の叙述」1801
「知識学」1804
「現代の諸特徴」1804
「学者の本質について」1805
『浄福な生への指教』1806
『ドイツ国民に告ぐ』(講演1807、出版1808)
「意識の事実」1810
「知識学概略」1810
「学者の使命に関する講義」1811
「知識学」1812
「哲学あるいは超越論的論理学に対する論理学の関係について」1812
「法論の体系」1812
「道徳論の体系」1812
「知識学への入門講義」1813
「知識学」1813
「意識の事実」1813
「国家論」1813
フィヒテは、知識学とその応用(法論、道徳論、宗教論)を何度も書き直している。
注:ヘーゲルの年譜
参照:『現代思想 総特集=ヘーゲル』1978.12、
『ヘーゲル事典』弘文堂
1770年 8月27日主税局書記官の長男として、シュトゥットガルトに生まれる。
1775年 ラテン語学校にかよう。
1777年 シュトゥットガルト・ギムナジウムに入学。
1783年 母死亡。
1788年 チュービンゲン神学校入学
1790年 冬学期は、ヘルダーリン、シェリングおよび他の7名と共に、大部 屋に居住
1793年 ベルンで家庭教師となる。
1796年 7月25日からアルプス旅行
秋シュトゥットガルトにかえる。
1797年 フランクフルトで家庭教師となる。
1801年 1月イエーナにうつる
冬学期より、イエーナ大学私講師となる。
『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』(1801.5-7執筆、1801. 9公刊)
1807年 『精神の現象学』(キンマーレによれば、1805.5-1807.1執筆、ハリスによれ ば1805早期執筆、1806印刷開始、1807.4公刊)
3月 バンベルクに移住し、『バンベルク新聞』の編集者となる。。
1808年 ニュルンベルクのギムナジウムの校長となる。
1812年 『論理学の体系』(有論の初版)
(1812.3.22に序文脱稿、1812.4.19-5の頃公刊)
1813年 『論理学の体系』(本質論)
(1812.3印刷開始、1812.12印刷終了、出版は1813初めか)
1816年 『論理学の体系』(概念論)
(1816.7.12脱稿、1816初秋公刊)
10月ハイデルベルク大学の教授になる。
1817年 『(ハイデルベルク)エンツュクロペディー』(1817.6公刊)
1818年 ベルリン大学教授となる。
1820年 『法の哲学の要綱』(1820.6.25 序文脱稿 1820末に発行)
1827年 『エンツュクロペディー』(第二版)(1825/26の冬から改訂の構想 を始める。1827.5.25に序文脱稿。1827.7初め公刊)
1830年 『エンツュクロペディー』(第三版)
(1830.9.18序文脱稿。1830.10.1までには印刷終了。)
1831年 11月14日コレラのため死亡。
1832年 『論理学の体系』(第二版)
(1831.11.7第二版序文を脱稿、死後1832公刊)